広重は、江戸の下級武士・八代洲河岸火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生、幼名徳太郎、のち重右衛門また徳兵衛とも称す。幼い頃から絵心が勝り、文化 (元号) 文化8年(1811年)(15歳)頃、はじめ初代歌川豊国の門に入ろうとしたが、門生満員でことわられ、歌川豊廣(1773年?-1828年)に入門、翌文化9年(1812年)に歌川廣重の名を与えられた。
11年後の文政6年(1823年)には、家業の火消同心を辞め、絵師を専門の職業にした。
天保元年(1830年)一幽斎廣重と改め、花鳥を描いていたが、文政11年(1828年)師の豊廣の死の後は風景画を主に制作した。天保3年 (1832年)、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。
安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。友人歌川国貞 歌川豊国(三代目)の筆になる「死に絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。
更新日時:2006-09-25T09:19:02+09:00
Wikipedia日本語版「歌川広重」より